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体協資料室で調べものの後、日本サッカー史研究会を取材。

五月晴れの日が続きます。きょうは気温もあがりました。

ここのところ、週末は取材。ウイークディは原稿書きの日々だ続きます。

午前中に自室で原稿を書いていると、やはり資料不足で行き詰まり。
きょうはJFAハウスのバーチャルスタジアムで2022年ワールドカップ招致ブック提出後の記者説明会があったのですが、それはキャンセル。午後から体協の資料室に行ってみました。

3単元ほど原稿を書き上げたら5時30分。力が入り過ぎて30分ほどオーバーしてしまいました。すいません。

それからお茶の水のJFAハウスへ。
月に1回の日本サッカー史研究会に参加します。今日の講演者は、1970年代から80年代にかけてフジタや日本代表の監督を務めた石井義信さん。お題は「1980年代の日本サッカー」。
石井さんは、現在FC東京の顧問を務められておりFM調布での試合実況辛口コメントで厳しい方という印象があったのですが、とてもバランス感覚のとれた素晴らしい方でした。

まったく存じ上げなかったのですが、石井さんは福山葦陽高校でサッカーをはじめられ、一般の試験で東洋工業(現マツダ)に就職。高校3年間しかサッカーをやっていなかったのにサッカー部(現サンフレッチェ広島)の門を叩いたそうです。東洋工業といえば日本リーグ4連覇をしたチーム。そこで努力され、日本代表にまで昇りつめられたそうです(Cap1)。
その後、藤和不動産にコーチ兼選手で移籍。フジタ工業と名を替え天皇杯、日本リーグを2回制覇。1986年には代表監督になり、1987年のソウル・オリンピック予選では最終戦のホームで最大のライバル中国と引き分ければオリンピックに行けたというところまで行ったのですが、敗退。辞任されました。
その時の、話が一番興味を引きました。アウェーの広州での一戦、水沼(浦和南OB)のFKを原博実(矢板東OB)がヘディングで決め1-0で勝った日本。翌週、東京の国立競技場でのホーム戦、その勢いのまま戦いたかった日本でしたが、国内スケジュール(東西対抗、日本リーグ開幕戦)の関係でホーム戦は3週間先に延び、中国は態勢を建て直し、日本は隠し球の松浦(横浜緑が丘)とエース水沼が負傷。日本はアウエーで勝ちながら、ホームで完敗。20年ぶりのオリンピック本大会出場は夢と消えました。

会は2時間を越して終了。アフターファンクションは、お茶の水居酒屋かめやちょう栄で。

護国寺の出版社に寄って作業。帰宅したら午前2時ころでした。
<了>

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