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不要不急の外出は避け自粛。夜遅くのニュースでマラドーナの逝去を知る。

再び初冬の気候が戻ってきました。

ただし、特に予定もなく自宅で作業。
今週末のJFL最終節の取材申請書を作ったり、早慶サッカー定期戦の取材申請をしたり、Wリーグ(女子サッカープロリーグ)のメディアチャンネルの申し込みをしたり。
年末年始の予定もそろそろ立てなければなりません。

世の中は、ようやく動き出しました。
GoToトラベル(トラブル?)は、ようやく大阪と札幌の除外が決定。
小池さんもアルコール類を提供するお店の営業時間の時短を決定。
何もかも中途半端で、効果があるのか疑問です。
今日の東京都の新規感染者は、再び400人越えの401人。愛知県も177人でした。
医師会からは、悲鳴にも似たような警告が発せられていますが、菅首相は相変わらず。
安倍ちゃんの桜を見る会事件の蒸し返しに野党に追いまくられている有様。
一向に、国民には危機感が届いてきません。
GoToも止めない、緊急事態も出さないでは、緩みっぱなしの国民感情は元には戻りません。

サッカーJリーグは、川崎フロンターレがガンバ大阪に完勝。史上最速で優勝を決めました。
プロ野球の日本シリーズもダイエーが巨人に4タテ。ジャイアンツは8連敗。情けなさすぎる。
サッカーとプロ野球の日本一が同時に決まったのは史上初とか。

暗澹なる気持ちで床に就こうかと思った時、フジテレビのLive Newsαの最後に内田アナ(ミタパンはお休みみたい)が、
「今入ってきたニュースです。サッカーのマラドーナさんが亡くなりました。享年60歳。ご冥福をお祈りします」
エー、いっぺんに目が覚めました。

現役を退いてから覚醒剤やらアルコール中毒やらで体を壊し、不健康が伝えられていたディエゴですが、こんなに早く死んじゃうなんて。心臓発作だと言います。

マラドーナの事は、1979年に日本で開催された第2回ワールドユース(現FIFA U-20ワールドカップ)で来日してからずっと取材してきました。
ワールドユースでは、アルゼンチンが優勝したのですが、1次トーナメントから決勝まで取材し、JFAの機関紙「サッカー」のワールドユース特集号に寄稿しました。ライターとしての初めての仕事であったと思います。編集者の鹿島さんのご好意で東京プリンス・ホテルで行われたフェアウエルパーティーも取材できました。
1982年のワールドカップにはスペインまで取材に行けませんでしたが、国内の受けを担当し写真集も作りました。
1986年のワールドカップにはメキシコまで取材に行き、「神の手」や「5人抜きのドリブルシュート」、そして世界一になった試合もアステカスタジアムで見ました。
1990年のイタリア大会も開幕戦から決勝までフルカバー。ローマ・オリンピコで悲嘆にくれていたマラドーナも取材しました。当時、マラドーナはイタリアのナポリに所属していましたが、準決勝の相手は地元イタリア。試合会場はナポリのホーム・サンパオロスタジアム。ナポリの人たちは母国イタリアではなくマラドーナを応援していたのが印象的でした。
1994年のアメリカ大会は、アルゼンチンが早々と敗退してしまったので取材できませんでした。
その大会を最後にディエゴはナショナルチームを引退。
その後、指導者になり、2010年の南アフリカ大会には母国のチームを率いて大会に参加。記者席にコメンテーターとしてきた時は、すぐ近くの席で試合を見たこともありました。

私は、あまり選手からサインをもらうことはしないのですが、ペレとマラドーナのサインだけは書いてもらっています。
私の取材活動した時期とマラドーナの活躍した時期は、ほぼ一緒。
彼が亡くなったと聞き、本当にショックを受けました。

そんなスポーツ三昧でした。

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