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鎮魂の週4日目。東日本大震災から10周年の日に報道を考える。

今年も3・11の日を迎えました。

3月に入ってから、テレビを始めとするメディアが、東日本大震災から10周年ということで、かなり力を入れて関係事件の報道をしています。
再び大災害と報道ということに対して、考え直してみることが大切だな、と感じる次第です。

皆さんは2011年3月11日は、どこで震災に遭いましたか?

私は原宿の代々木体育館でフットサルの全日本選手権準々決勝を取材していました。
第1試合が終わり、インターバルで第2試合を戦う両チームが試合前練習をやっていて、その練習が終わる頃であったと思います。
2階の観客席中央が記者席になっていて、そこで試合前練習を見ていたのですが、突然座っていた椅子がブランコのように揺れだし、天井の板がガサガサと揺れだしたのを覚えています。
ともかく、揺れる時間が長くて、余震がすごかったのも記憶に残しています。
まあ、東京オリンピック1964の時に世界的な設計家・丹下健三氏が作った建物はびくともしませんでした。場内放送が、
「慌てないでください。そのまま座席に着席の上、しばらくお待ちください」というアナウンスが流れました。
3時キックオフ予定の第2試合は、なかなか始まらず、しばらく待っていたら激しい余震がきました。
そうすると、ようやく、
「お客様には、慌てずに屋外に移動してください」と退去命令が出ました。そして1時間後くらいに、
「本日の試合は中止となりました。帰路についtれいただくようお願いします」とアナウンス。
仕方なく、帰路につきました。

10年前の私は、まだまだ元気で。東伏見の自宅から原宿まで自転車で1時間ほどかけて行っていました。
東京の被害は、電柱が倒れる程ひどくなかったので、普通に自転車で帰宅できました。
井の頭通りから甲州街道を突っ切り吉祥寺に出て帰宅したのですが、甲州街道は帰宅難民の方が新宿から西に向かって歩いており、歩道から人が溢れていました。すでに電車もバスも公共交通機関は止まっていました。
全日本フットサル選手権に取材にこられていた後藤健生さんは、上石神井まで歩いて帰られてと言っていましたから、大変だったでしょうね。

帰宅して自宅を点検したら、室内は煮崩れもなく、外出した時とほぼ同じでした。

世の中が激変し他のは、むしろ翌日からでした。
スーパーマーケットやコンビニから商品が消え、夜は「計画停電」という名前の予告無しの停電。福島第一原発がメルトダウンを起こす。
もう、何もかも嫌になって、よく帰省するようになりました。

私の3・11は、そんなものでした。
当時のテレビ報道は、津波の物凄さを伝えるために、何の考えもなく垂れ流し放送。ショックでおかしくなる方が多かったと聞きます。
しばらくすると「ツナミ」の映像は、控えめに流されるようになりますが、ありのままに伝える報道が、いかに酷いものか、被害の甚大さを理解するには良かったのですが、ともかく惨たらしいものでした。
それも嫌になった原因かもしれません。
事実を早く伝えるのが報道の使命なのですが、考えさせられる事象でした。
今でも、そんなことを考えてしまいます。3・11の10年めの心境です。

今日の東京の新規感染者は335人、愛知県66人。高止まりの状態です。
今日は不要不急の外出は避け、自宅に籠って鎮魂の1日としました。

そんなスポーツ三昧でした。

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