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日本サッカー史研究会に出席。

朝の検温36.2度。
平熱が低いわたしにとっては、少し高めです。


朝から体調がややすぐれず、夕方まで休養。

3時すぎから準備して、5時すぎに出発。御茶ノ水の日本サッカー協会(JFAハウス)を目指します。
今日はJFAハウスで第103回日本サッカー史研究会が開催されたので出席しました。

今日のお題は「1940年幻の東京オリンピックに対する蹴球協会の強化策」。講演者は福島寿男さん。
例によって会の取り決めにより、草しい内容は個人のブログで書くことはできません。悪しからず。

ざっくりした内容は、1936年のベルリン・オリンピックに初参加したサッカー日本代表は、優勝候補のスウェーデンに3-2で逆転勝ち。いわゆる「ベルリンの奇跡」と言われる勝利をおさめます。
しかし、2回戦で優勝したイタリアに0-8で大敗。次回1940年の第12回オリンピックの開催国でもあった日本は、早急な強化を望まれました。

そこで大日本蹴球協会は、どんな強化策を企てたのか。
ドイツから監督を招請、ドイツ代表チームの招待、日本代表のヨーロッパ遠征などが計画されます。それらのことは、1964年の東京オリンピックの強化策として実現されますが、すでに1940年の幻の大会前に企画されていたのです。
1937年、日本は盧溝橋事件を機に中国と全面戦争に入っていき、それが原因で1940年の東京オリンピックは返上。すべての強化計画は水泡に帰します。
しかし、イタリアに大敗したのをきっかけに、個人技をあげるために6人制サッカーを普及したり(現在のフットサルは5人制ですから、6人制はアイスホッケーに近いルールだったと思われる)、東京オリンピックを契機に組織された日本サッカーリーグの先駆けとして実業団リーグが組織されました(そのとき東京武蔵野シティーFCの前身、横河電機サッカー部も創設されたいます)。

また1938年のフランス・ワールドカップに出場するため、1937年に蘭領インドシナ(現インドネシア)とアジア最終予選を戦うところまでいっていました(これも日中戦争のため棄権)。
サッカー史研究会の主宰者の一人・後藤健生氏のまとめは、
「もし。あの戦争がなく、日本代表が1998年でなく1938年のフランス・ワールドカップに出場し、1040年に東京でオリンピックが開催され、数々の強化策が実行されていれば、日本のサッカーは、もっと早く世界の一線で活躍できていたことでしょう。まったく残念です」
というものでした。まったく同感です。

御茶ノ水駅前の「区民広場」でアフターファンクション。3時間ばかり談論風発しました。

帰宅は0時15分。
そんなスポーツ三昧でした。

次回のサッカー史研究会は、3月18日(月)の予定です。
<了>


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