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早稲田ラグビー追っかけ時代の旧友・川本峰男さんと水道橋で会う。

晩秋の良いお天気の1日。

今日は、関東大学アイスホッケーリーグ戦はレストデイ。
夕方5時キックオフで自宅裏の早稲田大学グラウンドで大学サッカーIリーグの早稲田大学ア式蹴球部vs.青山学院大学の試合があったのですが、11月あたまに大学時代の級友から突然連絡をいただき、今宵逢うお約束を先にしてしまっていたので(サッカーの日程が決まったのは先週でした)、旧友に会うのを優先しました。

旧友というのは、現在東京ドームにお勤めの川本峰男さん。
わたしは、大学生時代に早稲田ラグビー部の追っかけの様なことをやっており、その関係で早稲田ラグビーの同人誌を発行していました。1974年3月に創刊された同人誌は、78年4月30日に休刊になるまで26号(その他に号外4号)発行。創刊時の初代編集長が村瀬順さん、わたしが2代目の編集長、3台目の編集長が川本さんです。

大学1年次に父を亡くした貧乏学生だったわたしにとって、早稲田ラグビーは学生時代の数少ない夢中になったものであり、青春を賭けたメモリーでもあります。
そのころに偶然に知り合った川本峰男さんですが、彼が偶然にも日本スポーツ界のフリーランス・スポーツジャーナリストの草分けでもあった川本信正先生のご子息であったことは、幸運でした。
彼を通じて川本信正先生の知己を得たわたしは、内弟子的な関係になり、ずいぶん可愛いがっていただきました。一時は、川本先生の鞄持ちの様な事もしていて、当時の日本スポーツ界の重鎮の方々にも随分紹介していただきました。
JOCの柴田勝次さん(ボクシング出身)、陸上競技の織田幹夫さん、水泳の田畑政治さん、清川清二さん、古橋廣之進さん、体操協会の近藤天さん、ホッケー協会の廣堅太郎さん等々。
川本先生は、読売新聞社記者時代、デスクから命じられて「オリンピック」を「五輪」と訳したことでも有名です。

わたしは、早稲田ラグビーの同人誌を作っていた関係で、1977年と1978年の2回、講談社からラグビーのムック本を上梓、それをきっかけでスポーツジャーナリズムの世界に足を踏み入れました。
そうした出来事が、川本峰男さんとお付き合いしていた学生時代にあったわけです。

午後6時から9時30分まで約3時間半、酒を酌み交わしながら談論風発しました。
川本さんは、来年4月いっぱいで東京ドームを定年退職されるそうで(まるで平成と共に東京ドームを去るわけです)、その後の活動をどうするか、という話題が中心でした。
「もう一花咲かせましょう」ということで、今後もお逢いして意見交換しましょう、と話して別れました。

10時すぎに帰宅。
気持ちよく床に就いたスポーツ三昧でした。
<了>


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